メバル道具考【竿】
エラそうにこんなことを書く性分でもないが、釣友(当家ブログの大家さんですけど)との会話の中でこんな事を考えさせられた、というお話。
誰が言ったか定かではないが,「竿は腕の延長なり」と釣り人の巷にいう。けだし名言だと思う。ある程度の水準を越えた考えるタイプの釣り人ならば,おのずからこう感じるはずだ。
一本のノベ竿を振るとき,小指を中心にキュッと締めて持ち,人差し指は軽く竿に添わせる。こうすることによって手首が自由に動いて定めた狙いに仕掛けを打ち込むことができ,人差し指が竿先の糸やサカナの動きを敏感に関知するアンテナとなる。
これは魚をさばく包丁にも言えることで,「切っ先は指先なり」というのがそれだ。サカナを三枚におろすデリケートな仕事のときに包丁の峰に人差し指を当てて角度をつけ,これで骨のアタリを感じられるようにする。このときの柄の握り方は釣り竿と全く同じで,小指を中心に固からず締め,人差し指を軽く添わすのである。
釣り竿にせよ包丁にせよ,かすかな振動がダイレクトに,あるいは増幅されて指先を経由し脳に伝達され,刹那のうちに体の先端にフィードバックされて軌道修正する。この出来事が一瞬のうちに何十回も起こり,その連続でいわゆる竿さばきや太刀筋が決められていく。その「媒体」として道具が存在するということだ。
釣り道具は,竿もリールも手や腕の動作の補助という意味では同じであり,同じ道具であってもそれを扱う人間側の判断・行動によって働きに差が出るのは当然である。
が,最近は道具も進化してどんどん機能が向上しており,これまでは釣り人が考え,動きを制御しなければならなかった場面で,道具が自動的に作用してくれるようにもなってきた。かつて難しいと言われた釣りでも,初心者でもそこそこ釣る時代になった。釣っているには違いないが,道具の進化によって「釣った」と「釣れた」が曖昧になりつつある。
まあ高尚なゲームでない限り,要は釣れればよいわけではあるが,どうも最近の宣伝にあおられ、先進的な道具を追い求め,次々と金を使う風潮を見聞するにつれ,あらためて道具との関わり方を考えざるを得ない。
そんなことで今回は,釣りにおける「道具」と「ウデ=人間の技量」について、まずは「竿」について少し振り返ってみたい。
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【 手釣りと竿釣り,腕か道具か,そのへんの関係と問題 】
幼年から釣りを始めた私は,ノベ竿から始まり簡易な投げ竿,ブームに乗ったルアー,磯や船など,学生時代を経て通り一遍の釣り歴を歩んだが,長崎で漁船に乗ってサカナを確実に獲ることが日々の課題となってからは,次第に「竿よりも腕」,と思うようになった。
これは“腕=技量=スキル”ということではなく“アーム”という意味で,つまり,海底の餌や糸やサカナの動きを捉え対応する場合,竿やリールが間に入るより,直接手で糸を持ち扱う方が,より直接的に状況に対する反応も早い,と感じたからである。陸から遠くへ投げるためには竿が必要ではあるが,そのような状況は職漁師ではありえない。
いろんなサカナを狙ったが,水深150mくらいまでは十分手釣りのほうが手返しも早く,確実にサカナを掛けることができた。事実,商売で獲るタイ,イサキ,タチウオ,アジ,アマダイ,イトヨリなど,また,遊びでやるチヌやグレ,シロギスやカレイやカワハギにいたるまで,手釣りだけでも竿釣り師と遜色なく,むしろ上回る結果を出してきた。誘いがダイレクトで掛けが早い。むろん竿で釣る楽しみはあるにせよ,やはり手釣りのスピードと確実さはズバ抜けていた。
その後,漁船を降りて神戸に住んでいた15年前,散歩気分でイカナゴ餌のメバル釣りの遊漁船に乗って驚いた。周りは皆,4mはあろうかというヘラ竿を改造したベナベナ調子が完全にオモリに負けて糸をたらしている。こちらはいつものビシマ道具(道糸に小さなオモリを等間隔で打ち,潮吹かれを解消し感度を高めた手釣り道具)だ。先の仕掛けは両者とも同じ。
かくして結果は,私に釣れたのはほとんどカサゴのみであった。メバルが釣れぬ。前に明石から漁船に乗ったときにはちゃんと同じ仕掛けでメバルが釣れたのに,と思った。
わけがわからぬまま家に帰り,隣の釣り人のお情けでいただいたメバルを食った。このときは,これだけで終わるのである。超軟調子の改造竿はいかにも道楽じみていて,肌に合いそうになかった。次は釣ってみせると力んだところで,釣れない原因が解明できてない以上,瀬戸内海ではそれきりになった。
更に数年後,私は仕事を東京に移し,毎週末乗り合い遊漁船の魚釣りに没頭していた。特に味覚的に好きだったタチウオ、アジ,アナゴなどであったが、やはり手釣りに分があった。ところが,ここでも「メバルの壁」にぶつかってしまったのである。
冬場は毎週のようにタチウオをやっていた私に,エビメバルもおもしろいからやってみな,と勧めてくれたのは,東京は浦安の老舗釣り宿「吉久」の2代目親方であった。東京湾の“エビメバル”とは,川エビを餌にやるメバル釣りのことだ。夜はアオイソメを使う“夜メバル”になる。
瀬戸内海のリベンジとばかりにビシマ仕掛けを持参すると,やはりこれがロクに釣れないのである。ゼロではないが,倍以上も差がついてしまった。カサゴやアイナメは釣れるがメバルはダメ。何度やっても同じであった。わからない。波の動揺を腕で消し,アタリ,送り,合わせ,しているはず。しかし竿釣りよりアタリ自体が少なく,アタってもかからないことが多い。ハリスを長くしたり糸を細くしたりと工夫もしたが同じ事であった。
【 手釣りから竿釣りへ。メバルに合わせる手段としての道具 】
2回のメバル釣りで惨敗し,親方に釣れぬとぼやくと,これ使ってみなと渡されたのがシマノの竿「幻波マゴチ210」とダイワのリール「チヌジャッカー」のセットであった。1号という細いPEラインがあることも初めてこのとき知った。
そして3回目,たしかに釣れるようになった。しかも手で釣るより快適に獲れる。前アタリから食わせ,取り込みまで,とりあえず人並みには釣れる。それにしてもいったい何が違うのか。
更に3回ほど通い親方に礼を言うと,彼はニヤリとして別の竿を持ち出してきて曰く,「あの竿もいいけンど,これがホントのメバル竿。見てみなよこの曲がり!これだったら竿が釣ってくれンからよ。ホーラ,こんなに竿先が入ってくべえ」云々。と,天井に竿先を押しつけて語る,なかなかの商売上手である。銘にリョービ社「海波メバル300」とある。
その竿は,かつて瀬戸内のメバル船で見た改造ヘラ竿のようなベナベナ全調子とは違い,普段はピンとしているが,ひとたび曲がり始めると,竿先3分の1まではスーッと抵抗無く入っていき,そのあとじわじわと抵抗が強くなり,最後の3分の1から手元までは硬い胴がしっかり支えてくれる。今思えば,これが“メバル調子”ということなのだった。先3分の1のガイド数が並はずれて多い。
もういくところまで行くしかない。その場でその竿を買った。そして,再度メバルに挑み,手釣りで釣れない魚を「竿が釣ってくれる」という現実を,あらためて実感した。モタレが来て,コツないしモゾとくわえ,持ち込みつつ吸い込んだらガガッと突っ込む一部始終が,オモリで底を切ってじっとしているだけで鮮明にわかる竿だ。以後,加速度的に私のメバル釣果は伸びていった。
ついにメバルの“竿釣り”にのめり込んでしまった私は,メバルの時だけはビシマ仕掛けを捨て,その後,ひたすら様々な検証に没頭した。しまいには仲間で2トンの船を購入し,東京湾で独自の漁場開拓を始めた。その結果見えてきたのは,メバルというサカナの生態のおもしろさと,それに合わせた釣りの特殊性であった。ちょっと書いてみる。
〔船釣りから見たメバルの特性〕
①メバルは,自然界にない異質な動き,たとえば餌の極端な上下運動などを嫌うということ。
②メバルは,異音,たとえばオモリの着底音などを嫌うということ
③メバルの視覚は物体の屈折率の違いを見分ける機能が高く,昼間および水の透明度が高いときには糸を識別するということ。
④メバルの視覚は,夜間は極めて微弱な光でもとらえることができるように機能し,また,水の微弱な振動に対しても敏感であること。
⑤メバルは,夜と昼,明るさの度合い等によって行動や餌の種類が異なり,従って釣り方も餌も変わってくるということ。
⑥夜のメバルは,平行の動きだけでなく上方への動きによく反応するということ。
⑦メバルは,いったん餌をくわえても,違和感があれば離して去るということ。また,大型であるほどその点については神経質であるということ。
⑧メバルは,よほど活性が上がらない限り餌を丸飲みすることはなく,端をくわえてから段階的に吸い込んでいくということ。また,その早さは,潮が強ければ早く,弱ければ遅いということ。
⑨メバルは,通常の活性であれば,餌を食い込んだら底方向へ向かって突進するということ。
⑩メバルは,群れの一尾が掛かってそのままいなくなれば他の群れも散ってしまうが,逆に複数掛けて取り込む場合には群れはそのままであるということ。
⑪メバルは潮によって活性が変わり同時に群れの形を変えるということ(潮が効いてくれば群れはタテに高くなって活性が上がり,潮が止まれば底や障害物付近に沈む)。
⑫メバルは,時化の前後に活性が上がること。
⑬メバルは,潮が強すぎても弱すぎても群れは沈滞し餌を追わなくなること。
⑭メバルは,活性の低いときには目の前に餌が来ないと食わず,また,餌の端をくわえたままジッと静止している場合もあるということ。
⑮メバルの食い渋りには,水温によるもの,潮によるもの,外部からの刺激によるもの,など,それぞれの要因によって釣れ方の内容が異なること。
思いつくままに列記したが,これだけ書いても一端に過ぎない。
よくできたメバル竿ほど,メバルにある程度の活性があって基本的な釣り方さえ守っていれば,なんにもしなくても,これらの条件のかなりの部分を補ってくれる。これが「竿が釣ってくれる」ということである。
しかし,あくまでもそれはひとつの側面であって,常に人並み以上,あるいは人の釣れない悪天候や食い渋りのときにも確実に獲ろうとすれば,道具の性能を越えた部分で人間側が何をするかが課題となってくる。つまり,「竿に補ってもらっていた自分」から脱却し,「竿のできない部分を補う自分」に進化していかねばならない。
従って,「この竿はいい!」というときの中身は,釣り人の技量によって十人十色であると言えるし,技量の大きい人がいいという竿を,技量の小さい人が使っていいと感じるとは限らない。当然その逆もある。やはり,道具は使いよう。道具は人が選ぶものには違いないが,同時に道具が人を選ぶということも成立するのである。
それならば,道具の良さというのはあくまでも相対的なものであって絶対的にイイ竿は存在しないのか,と問われれば,実はある,と私は思っている。
「初心者が使えば竿が釣ってくれて,熟練するに従って高度に使いこなせる竿」ということだと思う。
この要件をメバル竿で求めると,船釣りであれば,先に登場した「幻波マゴチ」と「海波メバル」はひとつの完成型に該当する。この2本は,親から子,子から孫へ受け継がせる価値のある“名竿”である。おそらく既に絶版で,今日に至ってもこれを越える竿は出現していない。
メバル竿とは言うが,しなり調子と強度面では小メバルからマゴチ,スズキや大ダイまで,ちゃんと狙って獲れる竿であり,食い渋り対応で超スローな誘いのとき,胴突き仕掛けの先端にある小田原型オモリの先端が,瀬の一角にかすかに触れる振動を関知でき,メバルが食えば,自分が釣られたことを感じさせない繊細さを併せ持つ。
このような調子は、どういうわけか,ほかに出会ったことがない。たいてい,柔らかくてもダラダラと曲がりが鈍重で手元に腰がなかったり,食い込み重視と謳いつつ曲がりが中途半端だったりの竿が多い。「先は極めて柔軟で中ほどにかけて柔らかい腰があって手元は強靱,手元から先端まで張りがあって軽い竿」 これが,なかなか無いのである。
言葉で表現できても実際にない,ということは,それほど竿作りが難しいということなのか,あるいは制作者が適当なところで妥協しているのか無知なのか,何かの販売戦略があるのか。 いずれにしても,このような名竿が消えていく道理もわからないし,中途半端な道具が氾濫するのも買って使う側の我々にとっては困ったことである。
【 本当に必要な道具は何だろう 】
刻々と変化する自然条件に対して,メバルほど敏感かつ柔軟に反応して活路を探す魚も珍しい。順応にとどまらず積極的な適応をして生きている。釣り人がそれに合わせることができれば釣れるし,合わなければ釣れない。ただこれだけと言えばこれだけのことだが,メバル釣りの奥深さは,人間側が合わせるべき項目が無数に存在することにあると思う。それをとらえる方向での思考トレーニングおよび技術の修練がまず大切だ。けして道具ありきではない。
竿にせよリールにせよ,メーカのセールストークや釣り雑誌のグッズ紹介型釣行記事に煽られ,魚種や漁場や魚の状況に合わせてどんどん揃えていてはキリがないのは明らかで,これに乗っては悲喜劇となる。今日主流となっている特殊な事象に合わせて作られる道具というものは,一般的に汎用性が低く,上達するにつれて飽きがくるものが多い。満たすべき要件の根幹からはずれて枝葉に至り,いじりすぎてかえって根幹を見失うことは往々にしてある。
やはり,手持ちの道具の限界を超えた部分を補ってやれる技量をこそ,磨くべきであろう。その結果,具体的に道具のどのような点が問題であり,それが自分の技量では補えないことが明白になったとき,そこを補う道具を入手すれば,足りる。必然として,道具は少なくて済むのである。ただ、ここまで至るまでに、いろいろ沢山のムダが必要であるのは皮肉なことだ。 だから、良い師を見出すことは、ムダを省く上でも大切なことだ。
物であれ精神であれ,紆余曲折のあげく贅肉をそぎ落としたあとに残るもの。それが釣りの道のみならず,自分が生きる上で本当に大切なものなのだと思う。メバルに学ぶことは多い。
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