“スキマの釣り”と資源管理

ウエカツ水産

2007年09月14日 16:08

いやー,ここんとこ忙しくてかなわんかった。久しぶりの更新です。

今期の境港はいつになく沿岸でスズキやチヌが暴れ回っており,かつ味も上向きつつあり,また,グレなどの来遊も例年になく早い。一方,アジやサワラなど回遊魚の成長・肥満は遅く,底曳き物のノドクロやハタハタの水揚げも低調で,どうにも中途半端な秋の始まりです。
思い起こせば今年春の根魚の産卵は1ヶ月は早かったし,海が大きく変化している気配。これが可逆的な現象で大きな周期の一部なのか,あるいは不可逆的でいわゆる温暖化に代表される地球の避けられぬ方向性なのか,これはまだわからない。が,海がこれまでに体験したことのない事態になっていることは明らかだ。釣り人としては次期メバルやカサゴが心配なところ。秋が深まって,太い金アジがシラスに大沸きするのはいつ始まるのか。メバルの型物の接岸はいつか。

ところで冒頭に吐露した「忙しい」の「忙」の漢字。これは「心」を「亡くす」と分解・理解され,不思議なことながら,この言葉を口にするほどに自らの志気は低下し,エネルギーを減じてしまうしくみとなっている。なるべく言うまい,思うまい。
釣りで言えば,「食いが渋い」「サカナがいない」「潮が悪い」ひいては「道具が悪い」などが同等の効果をもたらすものと推察され,やはりこれを口にするほどに,釣り人は漁獲および観察ないし洞察意欲を失い,技術レベルが低迷する。なぜなら,これらは自分の責任を他の事象に転嫁する類の言葉だから。一種の“呪詛”ですな。しかも自分でかけてしまうというところがオソロシイ。いかがですか,諸兄方。

いずれにせよ“思索の秋”を迎え,今回はコムズカシイことなど,少々。

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「スキマを釣る」とはナニカと言えば,たとえば「スキマビジネス」ってあるでしょう。メジャーな,広く知られている商売が林立する中,もう新規参入の余地はないと誰もが思っているその狭間に,見落とされている価値ですとか,知られずにぽっかり空いた市場(しじょう)なんかがあって,これをスルドク発見し,それを狙って商売する,ということであり,日頃からの観察力と認識センス,スキマを嗅ぎ分ける経験と知識,などが必要ですね,商売には。

相手は違うけれど,この考え方自体は,人口と技術が膨れあがった現代の「釣り」,ひいては「漁業」にも当てはまると思っている。ただし,漁業の場合,スキマを突いただけで商売が成立するわけではなく,有限かつ自己再生能力を併せ持つ資源を「持続的」に獲ることができなければ生活の糧にはならない。ここに「資源管理」あるいは「資源維持」,更には「資源回復」という視点が必要となってくる。どこまで獲ったら次は獲れなくなるのか,永続的に獲るにはどうしたらよいか,減ってしまった資源をいかにして回復させるか,という考え方に関連する智恵と技術の動員だ。
ま,ビジネスにしても,一時的に儲かればいいという人が増長する一方で,やはり持続的な商売を構想する人もいるから,同じと言えば同じ。ここではサカナ,そして釣りの話だ。

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さて境港では,,,
最近,といってもこの2年間くらいで,岡山や広島から境港に来る釣り人が激増したように思う。その昔,チヌの落とし込み釣りの開拓期などはもっとすごかったという話も聞くが,いずれにせよ2時間も3時間もかけて車で来るのだからスゴイなと思う。特に,夜間に発電機をたいて電灯釣りをする人が,昨年あたりから急激に増え,従って休日の前・中・後の岸壁や桟橋は,精霊流しの行灯の如く,こうこうとした灯りがズラーっと並ぶ不夜城と化す。こんなに灯りが多くては,魚もイカも,どこに行ったらいいのか迷うのではないか。もちろん夜間のみならず,昼間は昼間で,たいして釣れなくても釣り人だけは多く,実に忍耐強いと感心する。

また,最近の流行で,メバラーとかエギンガーとか,「ー」が語尾についた擬似餌釣りの人々がひっきりなしに徘徊するので,餌釣り師と競合することもあり,実績ポイントはシーズンになればたいへんせわしない。魚もイカも,そして人も,スレまくっている。中にはそんなところで独占的な釣り大会を開いて悦に入る輩まで出現する。
地元オッチャン族の情報網もナカナカに速く,目の前でいいサカナを釣り上げてしまうと,3日とたたないうちにズラリと場所を占有されることも稀ではない。
とまあ,いろいろあるが,皆「釣りたい」という一心なのだから,いたしかたないことではある。海およびそこの生物は無主物であるからやりかたもいろいろなのではあるが,どういうわけか人間が絡んでくると,たとえばそれぞれの漁場で特有の力関係や派閥みたいなものまでできあがっていたりしてややこしくなってくる。そのような漁場では釣りにくい。傍観者としては,まあ仲良くおやんなさいとつぶやくのみ。やはり社会の縮図であって,けっこう釣り人同士が無視し合ったりイガミ合ったりしているのを見かける。

外来者・地元者のいずれにせよ,釣りやすい所,ないし情報網に載ってしまった所は,あまりにも不特定多数で漁場を利用するため,漁場の維持管理どころではなく,いわゆる“大衆漁場”なのである。すぐに釣り場を公開詳説してしまう釣り情報誌の功罪もあるし,それに乗っかる釣り人の問題もあろうが,このような釣り場では,皆が楽しめるような「暗黙のルール」が必要だし,それを理解できない者,端的に言えば,少なくとも気持ち良く挨拶すらできないような者,ポイントを仲間内で独占してしまうような輩,などは行くべきではない。

そのような当地事情にあってオマエはどうなのだと言われれば,私の場合は,いわゆる趣味の釣り人ではなく,「少ない時間でいかに必要最小限の魚を安定かつ継続的に釣るか」ということに重点を置く自給型ハンターなので,時間と予算の両面で効率性や採算性も考えるし,そのような釣りスタイルだと,少なくとも釣り雑誌やネット情報を頼りに周囲と同じような釣り方をしていたのでは到底仕事にならない。私にとっての釣りは,生活設計の一部であり,食を通じて自然界とつながる“生きる作業”の一環であるがゆえに,場当たり的な釣果では困るし,自分で漁獲調節できる,他と競合しない漁場が必要となる。

そこで必然的に今回のテーマである“スキマ”を探すこととなるわけだ。
先述した境港の事例のように,いいと言われているポイントに釣り人が集中すれば,それ以外のところには皆が目を向けないスキマが生じる。漁場だけに限らず,「釣り方」についても然り。これをつかむには,自分の行動範囲を広く見渡して,来遊するサカナの生態をよく知り,気候・潮汐・地理など環境の変化に関する情報を摂取し,手法を吟味し,場所を特定していく作業が不可欠である。釣果に関する情報も,釣れる場所が書いてあることを期待して見るのではなく,このサカナがここで釣れているとすれば,あとはどこで釣れる可能性があるか,逆に,釣れていいはずのサカナが釣れていないとすれば,なぜ釣れないのか,といった解読をする材料として読むようになる。その結果としての,新規漁場,あるいは釣り方の開拓だ。海図や底質も用い,実地観察を合わせて漁場を絞り込んでいく。
こうして見つけた場所,ないし釣り方であれば,その漁場が続くよう,自分でちゃんと資源管理(漁獲サイズおよび数量のコントロール,漁獲頻度の調節等)ができるのであるから,1シーズン中でも漁場は長く続くし,急激な環境の変化がなければ次の年も枯れることはない。

そんな釣りをしていて疲れませんかと聞かれることがあるが,逆にこれだからこそ面白く身にも薬にもなる。人によっては自然の雰囲気を満喫したり,魚のアタリや引きを楽しんだり,釣った数やサイズを競ったり,同好の仲間と交流を深めたり,道具にこだわったりと,釣りの楽しみ方も多様であるが,それはそれとして,やはり自然相手に真剣勝負ができて,しかもその相手の事情をよく考え配慮できてこその釣りだと思っている。
つまり,いささか大げさではあるが,人間が自然環境の中でバランスよく生きる道,すなわち「ちょうどよさ」というようなものを模索・実験している,これが私にとっての釣りというわけだ。
一般的にはそんなことまで考えて釣る必要もないかもしれないが,その考えのなさが,実は釣れるはずのところで釣れなかったり,自分の漁場開拓の可能性を阻害したり,時には無軌道な釣りに発展しやすいといったことになっていくように思う。
もっともこれは,釣れても釣れなくても楽しく糸を垂れるファミリーやカップルの幸せにクチバシを突っ込むような話しではない。

それにしても最近急速成長したメバルのワーム釣りにみるような「3次元的を隅々まで探れる釣り」はコワイ。意外と思うかもしれないが,いわゆる技術さえ磨けば効率漁具となり得るだからだ。事実,スキマ開拓で食料庫として大切に使っていた漁場にたまたまワーム釣り師が入り,その噂が同好者間に広まった結果,そこに蝟集するサカナをほとんど釣りきってしまい,その年はおろか,翌年以降も漁獲が激減した漁場がある。この,“擬似餌を使って大勢で漁場を叩いてしまう”,というのがいけない。
特に船からの釣りと違って,竿の届く範囲を集中的に探るタイプのいわゆる「オカ釣り」では,このようなことが起こりやすい。更に,アジ・サバやサワラやブリといった回遊性のサカナ,ないし一年性のイカ類やハゼではそうでもないが,生活基盤を海底に依存して世代を重ねるメバルやカサゴ,ハタ類などの,いわゆる「根魚」ではこのような影響が顕著に表れる。オカ釣りだから根絶やしにはならないというのは,今や全く通用せず,魚種と釣り方によっては漁場がつぶれることもある。

本音を言えば,“釣れるだけ釣るな”,および“その日のオカズ分だけ釣ったらサッサと帰れ”と言いたいところだが,釣りという行為自体,そのような束縛はもちろんないし,自由なところが釣りのいいところでもあって,強制されるべきことでもない。
ただ,たとえば根魚の行動・繁殖・生態構造や,その漁場の環境包容量などを考えぬが故に,あるいは考えた“つもり”にとどまっているが故に,釣れるままに根魚を釣りまくったり,また,漁師の漁場に知ってか知らずか入り込んで行って,自分で食べきれないほどサザエやアサリを獲って帰ったりする輩が絶えない。これらを見る限り,自由とは,適切な見識および常識を有する者にのみ与えられるべきものなのだと思わざるを得ない。

そしてその見識および常識は,釣り対象魚種の特性の把握などにとどまらず,人間という動物を含めた自然界の連鎖状況のひとつひとつを釣りを通して認識し,かつ釣りをとりまく他者を含めた社会状況を理解し,これに適応していく作業の中で醸成される。まさに釣りはそのような行為であって,サカナに適応できなければちゃんと釣れないし,人に適応できなければ漁場の共有はできない。
そういう意味では,釣りの教育的意義は大きい。「食育」があるなら「釣育」があってもおかしくない。

最近は「自然界」,というか,たとえば釣りにおいてはその相手である「サカナや漁場の環境のこと」をよく知らない釣り人が増えすぎているように思う。そしてそのことが,よく釣れないだけでなく,漁場を自らダメにすることにもつながっている。
かつての釣り社会は情報も発達しておらず,道具や技術も個人の工夫に由来するものであったため,自然界の事象に明るくないと人並み以上の成果は得られなかったし,だからこそ伝説の漁師や釣り師が存在した。また,めいっぱい頑張って釣ったとしても,釣り人口は今とは比較にならぬほど少なかったので,総漁獲量もたかが知れており,釣り程度であれば,資源に与える影響は極めて小さかったのである。今はそういう時代ではなくなってしまった。それほどに釣りが環境や資源に対する影響力をもってしまったということだ。

スキマを釣る,という考え方の重要性は,釣りのみならず漁業にとっても大切な考え方だと述べたが,たとえば私がかつて関わった「捕鯨」では,南氷洋や日本海沿岸で増えに増えている鯨類を獲り,これを有効利用しているわけだが,他国がいろいろな理由でクジラ資源を利用していないことを鑑みれば,日本の捕鯨は,ここで言うところの“スキマ”を見出して漁獲物を有効利用している行為にほかならない。欲だけに流されず持続的に利用する科学的視点がある限り,これが妨げられる理由は見つからない。
ただこれを,かつて30年前まで日本のみならず欧米諸国がやっていたように,オリンピック方式で競争して獲ってしまえば,いくら南氷洋の資源が豊富だとはいえ,枯渇していくのである。たとえば既に述べた,沿岸の公共性の高い大衆釣り場で釣り大会を開くといった行為などは,このオリンピック方式をやっているのと同じ理屈だ。

釣りそれ自体の面白さは,生命が生命を獲ろうとするときの「食」でつながる真剣さとヨロコビ,それを達成するため相手のしくみを解明していく学究的要素,そして,食わないネズミをかまうネコのような「遊び」の要素,などが複合しているところにあると思うが,それらの割合配分が各人自由なところもいい。だから万人いかようにも楽しめる。
しかし次に「釣果は,」となると,たくさん獲らねば満足できない人と,少し獲れば満足できる人,あるいは人と競争しなくては気が済まない人と,競争する気のない人がいるとき,どちらが穏やかに幸せかといえば,明らかに後者であろう。
商売金銭の絡む漁業の世界であっても,かつての“親の仇とサカナは見たときに獲れ”という従前のスタイルに対し,今日の漁業は,けして大漁をしたからといって喜んでいる旧来の単純な者ばかりではなくなってきた。獲り過ぎて値が下がり,資源が枯渇する方がおそろしいことに気がつき始めている。適度に釣って大切に食べて喜ぶ釣り人,獲り過すぎぬよう獲って付加価値を上げるよう努力する漁師。このようなスタイルが徐々に生まれつつある。
そもそも自然界の生物では,自分の腹を満たせば食い気は消えるのだから,腹一杯になったくせにそれでも餌を追うときがあるのは人間だけということになり,これは「摂理」に反している。反していれば,いつかは問題を生じる。これもまた理ナリ。

そうは言っても,釣り人にせよ漁業者にせよ,「どこまで獲れれば自分には適切なのか」,これに「気づくこと」がなかなか難しい。気づかないような人生を歩んできた人がナニカに気づくことは,何かしらキッカケがない限り容易ではない。が,そろそろ時代の流れとして,気づいていかないと手遅れになりかねない。釣り人も,漁師も,それほどに力を持ってしまった,ということだ。
気づくキッカケは,やはり釣りや漁業の中にある。だからこそ,たまには深く,自分がおこなうその行為を省みる必要がある。

釣れるままに競って獲ってしまえば,これは全世界各地で今日おこっている「乱獲状態」となり,逆にこれを回避することができれば「持続的な漁業」となる。
世の釣り人が,末永くその釣りを楽しみたいと思うとき,釣りというものが,本来は全て長期的な生活がかかった生業であったことをひとつ思い起こすだけでも,どのような姿勢で臨むのがいいのかが見えてくる。なぜならこのことは,どのように釣りの形が変わろうが,原点として不変だからだ。問題の内容が輻輳・混迷したときには,原理・原則・原点にに立ち戻るのが解決の早道だ。

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たかが釣りとはいえ,いつまでも野放図にやっていると,いまに欧米のように「レギュレーション&バッグリミット=魚種によって漁獲サイズの制限と一日で持ち帰ることができる数が決められている法律」なんてものが課せられて,自由なはずの釣りが不自由になりかねないのではないか。かの水産庁の一部署には「遊魚対策室」なるものが既に存在するのだからして,ずっとノンキでいられるとも思えない。
「法」の成立は“人間不信”が前提である。そんなものが介入することなく,人間の良識を拠りどころとした「美しい日本の釣り」であってほしい。

たかが釣りではあるけれど,よく観察していると,人それぞれ,その釣り様には理屈抜きで「その人自身」が映し出されていることに気づくはずだ。

日常の生活や仕事の中で,どのようにモノゴトをその人が考え,行動しているか,どのように人と接しているか,そんな姿勢がそれぞれの釣り方ひとつにも出てしまう。おろそかにはできまい。

“釣りは自分を映す鏡なり”,ということじゃないのかな。

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