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2007年07月05日

末期のサカナ

「死ぬ前に何かひとつだけ食ってよろしい」という状況になったとき,ナニを食って死にたいか。
そこにどう答えるか。

前回“忘我の味”,などということを書いていたら,その延長でこんなことに思い当たった。
ひとそれぞれいろいろあろうが,まあ,ここでは当然サカナが話しの対象となる。これを仮に“末期のサカナ”としよう。

これについて,私はこれまで,いつでもどこでも,即座に「サバです。特にサバ寿司です!」とキッパリ叫んでいたものだ。逝く前に,旨いサバ寿司をひとくち食って一瞬味わったのち静かに目を閉じたい。と思っていた。

旨いサカナを数えればキリがない。
獲れる時期,場所,サイズ,鮮度,そして調理法,食環境,等々が適切に融合すれば,それぞれに旨いし,或いは旨くすることができる。
しかし“末期のサカナ”となると,単なる旨いマズイだけでなく,むしろ個々人の内面的な世界と強くつながっているサカナ,あるいはそのような料理,ということになるのかもしれない。最近流行のソウルフードなどとは,また意味合いが違うのだが。

さばアレルギーの人には申し訳ないが,「サバ」のうまさ。これは今さら言い立てるまでもあるまい。
適切な手法で鮮度を維持し適切な処理さえ心得ておけば,その身肉は,およそ魚類界において最強クラスの旨味をもち,それはいかなる料理に仕立てても揺らぐことがない。負けないのである。
たとえばサカナのカレーを作るとき,マグロ,アジ,サバ,サンマ,その他白身のサカナいろいろと使ってみると,違いがよくわかる。香辛料に負けず,いくら煮込んでも歯ごたえも維持しつつ,噛み下した直後からグッと迫る旨味を固持しているのがサバだ。それだけに,“品のある味”とは言い難いが,まあ強くしっかりしているのである。多少鮮度が落ちている場合であっても,だいたい旨味が勝つ。そばつゆなどにグッとくるコクを出したいときに,サバ節を加えるのもこういうわけだ。

塩サバ,焼サバ,汁物,煮物,揚物,刺身にシメサバ,サラダにしてもよいし,オードブルにも,和・洋・中全てに化ける。我が国では塩や糠に漬けて保存食にもする。“鯖の水煮”はサカナ缶詰の代名詞たる存在だ。汎用性が広く,人間の魚食生活に古くから深く溶け込んでいる。その点,大衆性の強い青ザカナの一員でありながら,他の青ザカナとは歴史と実力が違う。

中でも,こと「サバ寿司」となると,別格だ。

関東のバッテラ,土佐の姿寿司,最近では若狭の焼きサバ寿司など,要は塩をあてたサバを酢でシメ,整形した酢飯に乗せて押しをかけた寿司は各地に存在し,余計な添加物さえ入っていなければそれぞれに旨いが,ここで言うのは京都で作る郷土食たる「サバの棒寿司」だ。
京都のアレは,日本の風土と文化伝統が生んだサバ料理の最高傑作ではないかと思う。

日本海は若狭湾の,脂の乗りすぎない肉厚の朝獲れサバを背割りにしてひと塩し,これをカマス袋に担いで京都まで運んだ。この道が言わずと知れた「サバ街道」だ。福井県の若狭小浜から南西に下って琵琶湖西岸に至り南下し,幾多の峠を越えて京都に至る,全長約72㎞の山道である。サバの押し寿司を作り食べる習慣は,この途中の宿場町の随所にみられる。

ひと塩モノのサバがたどりついた先の京の料理人および家庭のご婦人方は,馬上で揺られ運ばれる間にちょうどよく塩のなじんだこれを酢で締め,若干甘めに仕上げた酢飯と合わせて押しをかけ,短期保存食とした。ただでさえ“サバの生き腐れ”と言われるほど鮮度の落ちやすいサバを,冷蔵器機のない時代,よくぞここまで生に近いかたちで食べられるところまで昇華したものだ(このへん,過日書いた「カルパッチョ」の根本原理と相通ずる原理があると思う。生で旨いかぎり生で食いたいという人間の欲求と,その発露たる工夫の産物だ)。

あらゆる面で合理的,かつ味覚のバランスが良くできており,そのための技術の粋が細部に凝らされている。京の実力。京の格式にいくらお高くとまられようが,これを食ったら「さすがミヤコじゃ・・・」と納得せざるをえない。
今でこそ日常的に周年食べられるようになっているが,本来は祝い事や祭りの時につくる“ハレ”の食であった。

かつて学生時代,京都の友人の実家に招いていただき,年の暮れ明けとお世話になったおり,そこの母上殿のこしらえたサバ寿司を口にして目を瞠った。九谷の大皿にどっしりびっしりと並んだそれは,
まず,美しかった。3㎝ほどにも分厚く切ったサバ寿司がしっかりまとまってピカピカ輝いている姿は,美しいだけでなく安心感を与えた。
そして次に,口元に運んでも,かみ砕いたときの空気が鼻腔に抜けても,臭みがない。生でもないが,生じゃないとも言えない。旨いが,旨過ぎない。郷土の香りがする。伝統の重さがある,かの母の佇まいそのままに優しさと力強さが同居している。という具合であった。

今でもその具象・心象風景が,味と共に,ありありと残映しているのである。背筋のピシッと通った立派な母上であったが,今はもうおられない。あのサバ寿司は,夢の中でしか,もう食えない。
作り方は教わっていて,自分でもしきりとやってみるのだが,やはり違う。旨くはあるのだけれど,やはり,このような伝統料理には人間の格みたいなものが出てしまう。かの母のそれには遠く及ばない。次元が違うのだと思う。

というわけで,やれ大味だ小味だとウルサイ私の「末期のサカナ」は,ここ20年来「サバ」なのであった。味もさることながら,特に私の中でのサバ棒寿司の存在が,魂の根幹奥深くまで食い込み息づいている。幼少の頃から食べた経験があるわけでもなく,まして京都に住んだこともない。ところがこうなってしまうのは不思議なことだ。

さて,振り返って今。
ここ境港に水揚げされる山陰のサバは,今でこそ,いくら大きくても1㎏いくかいかないか,というところであるが,かつて10年前には,大きいもので2㎏もあるようなサバも獲れていたという。今では考えられない,カツオと見まがうばかりのサイズである。味はいかばかりであったろうか。思いめぐらせば,つい遠い目になる。海は変わった。サカナも変わった。ヒトの生活が変わってしまったからだ。

地元で名を知られる廻船時代からの弁当「五左右衛門寿司」は,昔からこの形態かどうかは知らないが,今は山陰沖のサバを用いたまさに棒寿司で,旨いのである。が,地物とはいえ現在使用しているサバはせいぜい25~30㎝程度。境の昔日を想わせるべくもない。

現代のここ境港市中で旨いサバを存分に食いたくなったら,「ぶっこん亭」に行けばよい。旬の最盛期であれば刺身が味わえるし,シメサバは常備している。よくまあサバをこれだけ揃えられるものだと感心する。しかも全て地物だ。

なかなかに秀逸なのは酒後に注文する「サバ押し」で,これは即席の棒寿司である。即席であるが故に,塩加減も酢加減も浅く,刺身感覚の旨さがあり,いかにも毎日新鮮魚が水揚げ豊富な境港らしい仕上がりだ。寿司の歴史において紀州を起源とし西日本で発達した「なれ(熟れ)寿司」に対し,江戸日本橋の魚河岸で生まれた「握り寿司」の別名である,いわゆる「早なれ」もしくは「早ずし」とはこんなものではなかったか,とのイメージがよぎる。

京都のサバ寿司とは違って値段もお手頃で,スバヤク気取らずジワリと旨い。この点,若き店主の門脇誠君の料理に対する姿勢が表れているといってよい。入り口には営業中ではなく「合戦中」と大きな殴り筆の木札が掛かっている。彼は毎日素材と合戦しているのだ。されど料理はさりげない。このへんがニクイ。他のサカナ料理も気が利いており,とにかく私のような根っからの“サカナっ食い”にはありがたい店だ。

が,末期のサカナ,とは別のもの。
境港で日々旨いサカナを食いながら,件のサバ寿司を静かに回顧している。



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Posted by ウエカツ水産 at 01:17│Comments(0)魚・料理
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